「百花宮」は自身の著書で初の二桁台に突入した作品なわけですが。
これまで、デビュー作の「最初閣下とパンダと私」の二巻が、最大だったもんな。
そんで、改めて思うこと。
大長編作品に育てたかったら、飽きない主人公に設定するのは必須である。
ウケを狙ってニッチな主人公にしてしまったらね、案外早く飽きるのよ。
読者の中には「主人公=作者の自画像」と捉えてしまう人がいるみたいだけれど、そんなことはない。
キャラはあくまでキャラであり、私小説だって作者を100%投影しているわけではないのです。
ただ、自分と近しい性質を持たせた方が、書きやすくて愛しやすいのは確かだ。
あんまり自分と真逆のキャラを書いていると、途中で疲れちゃうのよ。
わかりやすく言えば、根がいわゆる陰キャな人が陽キャなキャラを書きづつけるのはしんどいし、その逆もそうってことね。
これについては、作者によっては、主人公を変えて巻数を稼ぐ人もいる。
それも一つの手だろうけれど、最初の主人公が好きでファンになった人からすると、「なんだよ!」ってなるのは当然だわな。
だから、たまに視点を変えて雨妹の語りでは見えない個所を補足することはしても、主人公を変えることはしない、という自分ルールはある。
あと思う大事なことはコレ。
世界観の風呂敷を、勇気を出してめいいっぱい広げまくる!
世界観が小さかったら、小ぶりな話になるのは当たり前なのよ。
この世界観というのは、別に壮大な世界設定をする、ということだけではない。
どれだけキャラ設定を掘り下げるかとか、広げる余地を持っておくかってこと。
自分の手に納まる話は、当然書きやすいけれど、「書きやすい」じゃあ駄目なんだな。
手に余る、「マジでこれを書くの?」って自分で自分の正気を疑うレベルの話をぶちあげて、どうにかラストに向けて必死につじつまを合わせていく。
この「つじつま合わせ」の能力こそが、真に求められている作家力な気がする。
「宰相閣下」と「百花宮」の違いって、ココだと思うのよ。
「宰相閣下」は、主人公のアヤだってそこそこ好きなキャラだったけれど、そのアヤが滞在する場所の外というものを、あまり作ってあげられなかった。
実際、アヤは最初に滞在した場所からほぼ動いていないし、関係者が増える余地もあまりなかった。
けれど「百花宮」はそこの広がりの余地があった。
中華世界なので、先発の中華小説に倣って最初にちゃんと国の成り立ちの設定をしたのがよかったんだろうな。
「宰相閣下」は、そこを曖昧で済ませちゃったんだよ。
世界観が固まっていないと、妄想も広がらないのさ。
つまり、地理は大事だよ。